理論と感覚


尽きない論争

いわゆる理論派と感覚派の間では論争が絶えないのがこの声楽界。
お互いに平行線を延長させ絶え間なく語り合う日々が続いています。

では、理論と感覚は相容れないのかというと、そうではありません。

常に理論と感覚は表裏一体であり、感覚は理論であり、理論は感覚であると言えます。

この文言だけではチンプンカンプンだと思うので、例を上げましょう。

・いがぐり・

あなたは、道端でいがぐりを見つけました。
「これは栗だ!食べられる!」と思ったあなたは、いがぐりを素手で握りしめました。
「痛い!!」きっとあなたはそういうでしょう。

これが感覚です。

いがぐりを素手で拾ったあなたはあまりの痛さに手放してしまいました。
今度は、いがぐりの棘が手に刺さらないように力を緩めて持ち上げました。
ようやっといがぐりを手にすることができたのです。

これが理論です。

極論な例えですが、一度理解をしたあなたは、二度といがぐりを握りしめたりはしないでしょう。
これは学習でもあり、いがぐりの棘は優しく持てば手には刺さらないという「理論」だと言えるのです。

 

理論の価値

歌唱においての理論や理詰めでの価値は大きく分けて2つあります。

ひとつは「再現性の拡充」
もうひとつは「感覚的バイアスからの保護」

この2つです。

この世の中には「シャーッときてググッとなったらシュッと振ってバーンだ。」というように感覚のみで出来てしまう人が少なからず存在します。
ですが、当然そういう人ばかりではありません。

同じように「シャーッときてググッとなったらシュッと振ってバーンだ。」と打って、腕を壊したり、コントロールが出来ないようでは再現性がありません。

プリモテノールが「いやーHiCって運試しだからさぁ~。10回出して6回当たったら優秀だよね~。」などと言おうものならオペラの決め所でヒヤヒヤしながら見ることになってしまいます。

その為に必要なのが理論であり、感覚を理論に落とし込んで歌唱の再現性を高めることによって、運試しを脱出する必要があるのです。

 

感覚的バイアスからの保護はもっと踏み込んだことになります。

人間は加齢による筋力低下、ホルモンバランスの変化、ルーチン化によってプロセスを簡略化することがあります。

すると、感覚的には昨日と同じ、先週と同じ、先月と同じ。と思っていても気が付かないうちに少しずつずれていることがあります。

最初は微量のずれでも、放置すればいつの間にか知らない土地にいる…なんてことも起こり得るのです。

「自分だけは大丈夫」なんていうことは無く、誰にでも等しくその乱れはやってくるのです。

 

理論と感覚

それゆえに人は、理論と感覚を紐づけ、扱わなくてはならないのです。

かくいう僕も、かつては感覚のみに依存していました。
理論を学ぶ場所がなかったとは言え、再現性を上げることを放棄していたのです。
現時点での僕の結論として、理論と感覚の存在というものの関係は単純明快なのです。

感覚を理論に当てはめ理論に落とし込み、理論で感覚を呼び起こす。

どちらの優劣をつけるのではなく、どちらも必要であり、どちらかが欠ければどちらも存在しなくなってしまうのです。

 

あなたはどちらも足りていますか?