自分の選択肢に付随する責任から目を背けるな。


浪費的選択

人生とは常に選択肢の連続で、たった一挙手一投足も選択肢として存在する。

いわゆるノベルゲームのような視界の中央に突然現れ選択するまで時が止まるような選択肢はこの世の中には存在しない。

もしかしたら、そういう選択肢を選ぶ人生もあったのかもしれないが、残念ながらそういう意味では僕は凡人のそれであったのだ。

現代社会において責任の在り方は変容する。そして選択肢の結果、人間同士の関わりというものも変容している。

例えばSNS上で気に入らないことがあったからといってブロックをする作業は、現実世界では全く効果が無いうえに、

相手のプロフィールを開き、ブロックを選択するという無駄なパケットとフォトン。そしてカロリーを消費する作業に他ならない。つまり浪費だ。

現実世界では全く効果が無いという事について、違和感があるかもしれない。

だが、事実インターネッツワールドは悲しくも仮想空間でしかないのだ。

 

僕はこれまで複数回、僕に対して有難くも浪費活動を行ってくれた方々にお会いしたことがある。

わざわざ会おうとしたわけではなく、偶然か必然かタイミングが一致したのである。

実世界にブロックなど存在しないのだ。

 

世の中には選択肢が溢れている。こうしてキーボードをたたく僕も、たった今選択肢に満ち溢れ、文章と言葉選びに選択というリソースを振り分けている。

この言葉を受け取った誰かが、興味関心を持ったり、自分自身の何かに気が付ける投資的選択か?
はたまた、画面から煌々と溢れるフォトンと一人暮らし生活を少しばかり圧迫するであろうパソコンの充電とキーボードの摩耗を促進する浪費的選択か?

それさえも選択肢なのだ。

それゆえに、今現在はこの拙い文章からも何かを得てもらえることを願うばかりの他力本願思想ではある事は間違いない。

 

選択と覚悟

実は今日、Twitterの名称を変更することを決意した。

そう、本名を名称に加えることにしたのだ。

なぜ、このような決断に至ったか、語り始めれば日付が変更してしまうかもしれない事柄だが、僕自身の思考の中ではあまりにもあっさり決まったのだ。

名前を出すこと、正体を明らかにすること、それらにおける影響は何かを具体的に把握することは、自分の立ち位置を明確に知るためにちょうどいいのだ。

有難いことにTwitterでは8800人がフォロワーとなっている。
(この場合、人とするか、アカウントとするかは、これからのインタラクティブコンテンツとしての在り方を問われる気がするので先手を打っておくけれど。)

この決して少なくない影響力の中で名前を出すことはただの選択であったはずなのだ。

だが、僕は覚悟してしまった。

その原因は理解しているし、当然の事ながら理由は「固定概念」だった。

僕は7歳で初めてパソコンに触り、いわゆるネット黎明期を見てきたつもりであったが、その中で様々な事件やイベントを目にしてきた。

「どんな人がいるか分からないから気を付けるように」

そういわれながら使ってきたインターネットという世界に、自分の痕跡を残すことは非常に憚られるものだったのだ。

「何に対して負い目を感じるか」

僕はこれまで目に見えないものに負い目を感じていた。

環境、人脈。いろんなものに、意味のない配慮を行ってきた。

なぜ、意味のない配慮だと言い切れるかというと、それによる恩恵なんてこれっぽっちも無かったのだ。

それは自分が持っていた固定概念であると気が付いたとき、僕は何でもできるようになった。

そう、言葉通り何でもだ。

恐れることがなくなったのだ。恐れる必要が無いからだ。

まだ、やったことない事は、まだ失敗していないのだから怖くないのだ。

つまり最強なのだ。

 

選択肢を広げる責任

現代において、「選択しない選択」という価値観が生まれている。

何事においても正解や結論を後伸ばしにしてたっぷり思考する。そうするうちに誰かが結論を出してくれるか、お流れになることを期待する価値観だ。

もちろんそれも1つの正解だと感じる。

だが、時間は無限に存在する訳ではなく、あまりにも優雅に過ぎ去ってしまう。

選択することを選択した場合、それを選択した責任が付随する。

その責任は、選択したあなただけが手にすることができる甘美で崇高な責任なのだ。

そして、その責任が多ければ多いほど人生の充実度は加速する。

選択肢を選ぶことによって選択肢が狭まるのではなく、
選択肢を選ぶことによって生まれた責任を享受することにより新しい選択肢が生まれるのだ。

そんな当たり前すぎて思考するまでもない事だけれど、考えてみれば当然だった(支離滅裂)

そう考えると、僕はかつて、自分の目の前の選択肢を蔑ろにし、それでいて人生を悲観することがあった。

「なぜ、この世界はつまらないのだろう。」

その原因が単純に自分の選択肢にあるとも知らずに。

この世界がつまらないのではない。自分の安住した地がつまらないのだ。

自分にしか取れない責任を負うことが、それを大きく打破するきっかけなのだと。

きっかけはいつも足の裏に

今思えば僕自身がSNSを中心とした集客を始めたのは、僕自身の選択だったのだ。

声楽家でまともにSNSを使って集客や宣伝、自己のvalueを確立している人は多くない。

当然、新しい分野となる。

未知の世界に飛び込み、そこでポジションを取ることは容易ではない。

思い返してみればきっかけなんてものは存在せず、「ツイッターで適当に呟くかー」程度だった。

そこに自身の経歴やポジションを付加していったら、言動に責任が生まれた。

「声楽家がそんなことを言っていいのか」

「そんなことを言ったら仕事が無くなるぞ」

色々なことを言われてきた。

だが、おかげさまで、人並みに生活を送ることができている。

これはもちろん僕に興味を持ち、レッスンに足を運んでくれた方、テルプシコロディアに来てくれる方、指導を打診してくれた合唱団。

たくさんの人のおかげで生きている。

これらはすべて、「声楽家」だからではなく「僕自身」だったからなのだ。

 

きっかけなんて無くていい。動機なんて無くたっていい。

自分の足の裏のほくろ程度の存在にどれだけ価値を見出せるかが重要なのだ。

 

自分の価値を作り、それのポートフォリオを確立し、発信し続ける。

これは選択の責任を取り続けることによって生まれた選択の価値を高め続けることによって生まれた、新しい生き方だと僕は確信している。

 

さぁ、自分の価値を高めよう。